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ユダヤ民族の行く道

link0038.PNGメシヤの降臨とその再臨の目的から引用する。

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>イエスは、洗礼ヨハネを指して、彼こそまさしく、ユダヤ人たちが待ち望んでいたエリヤであると言われたのであるが(マタイ一一・14)、これと反対に、当人である洗礼ヨハネ自身は、既にこの事実を否認してしまった。ではいったいユダヤ民族は、だれの言葉を信じ、従っていくべきなのであろうか。それはいうまでもなく、当時のユダヤ人たちの目に、イエスと洗礼ヨハネの二人のうち、だれがより信じられる人物として映ったかによって、左右される問題であると見なければならない。

>それでは先に、当時のユダヤ民族の立場から見て、イエスの姿がどんなふうに映ったかを調べてみることにしよう。イエスは貧しい大工の家庭で成長した一人の無学な青年であった。このような青年が名もない布教者として立ちあがり、自ら安息日の主であると称しながら、ユダヤ人たちが命のごとく考える安息日を破った(マタイ一二・1~8)。それだから、イエスはユダヤ人の救いの基準である律法を廃する人として知られるようになったのである(マタイ五・17)。したがって、イエスはユダヤ人の指導者たちから信じられなくなり、やむを得ず、漁夫を呼んで弟子とし、取税人と遊女と罪人たちの友達となって、共に食べたり、飲んだりしたのである(マタイ一一・19)。そうしながらイエスは、ユダヤ人の指導者たちよりも、取税人と遊女の方が先に天国に入る(マタイ二一・31)と主張された。

>一人の女がイエスの足を涙でぬらし、自分の髪でぬぐい、その足に接吻して、高価な香油を塗ったことがあった(ルカ七・37、38)。このような行動は、今日の社会においても許容し難いことであるが、まして、淫行の女は石で打ち殺してもよいというほど、ユダヤ人の厳格な倫理社会において、どうしてそれを許容できるであろうか。しかも、イエスはこれを受け入れたばかりでなく、その女の態度を非難する弟子たちをとがめ、かえってその女を称賛された(ルカ七・44~50、マタイ二六・7~13)のである。

>また、イエスは自分を神と同等な立場に立てて(ヨハネ一四・9)、自分によらないでは天国に入ることができないと主張し(ヨハネ一四・6)、自分を彼らの父母や兄弟、妻子よりも、もっと愛さなければならないと強調された(マタイ一〇・37、ルカ一四・26)。イエスの姿は、このようなものであったので、ユダヤ人の指導者たちは、彼を悪霊のかしらベルゼブルに接した者と非難し、嘲笑した(マタイ一二・24)。イエスに対するこのような前後の事情を総合してみるとき、当時のユダヤ人たちの目に映ったイエスは、決して信じられる存在ではなかったのである。

>つぎに、我々は当時のユダヤ民族の立場から見た洗礼ヨハネの姿は、どんなものであったかについて調べてみることにしよう。洗礼ヨハネは、当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれた(ルカ一・13)。彼の父親が聖所で香を焚いていたとき、その妻が男の子を懐胎するだろうという天使の言葉を信じなかったために唖となったが、ヨハネが出生するや否や口がきけるようになった。この奇跡によって、ユダヤの山野の隅々に至るまで世人を非常に驚かせた(ルカ一・8~66)。そればかりでなく、荒野でいなごと野蜜を食しながら修道した素晴らしい信仰生活を見て、一般ユダヤ人たちはもちろん、祭司長までも、彼がメシヤではないかと問うほどに(ルカ三・15、ヨハネ一・20)素晴らしい人物に見えたのである。

>既に明らかにしたように、その当時の事情から見て、ユダヤ人たちの立場から、イエスの姿と洗礼ヨハネの姿とを比較してみるとき、果たして彼らはだれの言葉がより信じられたであろうか。それは洗礼ヨハネの言葉であったということはいうまでもない事実である。したがって、ユダヤ人たちが、洗礼ヨハネのことをエリヤであると言ったイエスの証言よりも、自分はエリヤではないと否認した洗礼ヨハネの言葉の方を、一層信じたのは当然であった。ユダヤ人たちが洗礼ヨハネの言葉を信じるようになったとき、イエスの証言はメシヤを自称するための一種の偽証となってしまったので、イエスは自然、妄言者として追いつめられざるを得なかったのである。

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